京都観世会館で、求塚を見てきました

京都観世会館で、片山定期能七月公演を見てきました。知り合いの息子さんが子方としてデビューするということで、楽しみでした。
演目は橋弁慶。祇園祭にもちなんでいます。

能「橋弁慶」
弁慶・橋本忠樹、牛若・橋本和樹、弁慶の従者・大江広祐
都の者・茂山千三郎、鈴木実

子方は牛若で、弁慶と堂々と切りあいします。かわいらしい坊ちゃんで、物怖じせずに勤めて、これからが楽しみですね。

狂言「昆布売」茂山千作
これも関西風で、笑いました。

能「求塚」青木道喜
求塚、昔、東京国立劇場でも見たのですが、今回のはすばらしかったです。特に後シテのやつれた痩女の面と、そして、救われることのない哀しみの表現が心を打ちました。二人の人から選ぶことのできなかった女の苦しみ。リスクをとることは、自分に誠実に生きることなのかもしれません。夏の京都で、こんな充実した能楽を楽しめるなんて、しあわせでした。

 

関西・歌舞伎を愛する会 結成四十周年記念 七月大歌舞伎

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今年も、祇園祭に京都に滞在していて、その合間に大阪にも出かけています。毎年、必ず大阪に通うのは、芝居が面白いから。初役の方も多いのですが、みなさまの真剣さに心打たれるものがあり、通いづめています。

歌舞伎をじっくりと味わいたいので、昼の部、夜の部と間をあけてみています。7/18 木曜日は、夜の部に拝見しました。演目の中で、『弥栄芝居賑(いやさかえしばいのにぎわい) 道頓堀芝居前の場』があって、関西・歌舞伎を愛する会 結成四十周年記念と題していました。

東京では、歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、国立劇場、浅草公会堂など、歌舞伎が毎月、何よ箇所で上演されています。それが当たり前のように、来月はこの芝居と、チケットを買っています。ところが、関西では、そうではないのですね。松竹座も、一月の正月公演と、七月の関西歌舞伎を愛する会の二回。そういえば、十一月、十二月は京都南座の顔見世公演でした。

四十年を振り返り、仁左衛門さんが挨拶されていましたが、関西で歌舞伎ができない時期があったとおっしゃっていました。映画やテレビにも出ていたし、本当に苦労があったのですね。 この日もご挨拶はしたものの、夜の部の出演はなし。

昼の部に命を賭けて、知盛を演じています。昼の部なら、贔屓のお姐さんたちも、見に来られる。清元の公演に東京国立劇場に駆けつけたときも、おわりが8時半で、新幹線の最終に間に合うようになっていました。仁左衛門さんの人気、すばらしいものです。

葛の葉は、時蔵が際立っています。障子に歌を書くのも、なれたもので、みていてうっとりします。こんな狐がいたのかもしれないと思わせるところがさすが。萬太郎の安倍保名は、難なく演じているのだが、若すぎる。あと何年かしてみるといいかもしれません。

上州土産百両首
正太郎役の芝翫は、当たり芸。そつなく、そして、本領を発揮しています。
牙次郎役の菊之助、汚れ役です。途中できりりとなるのかと思ったが、最後まで、気のいい、そして兄貴分思いの正直者を演じています。主役のひとりではあるが、菊五郎はやらないでしょう。吉右衛門の芸風かもしれません。昼の部の義経との釣り合いを取っていて、なかなか味わいがあります。東京ではみることのできない役なので、得した気分でした。 三次役の橋之助が、小憎らしくていい味を出しています。彼はワルでないと、芝居にならないから、すねたような、そして強請り、うまく演じていました。
ちょっとだけ、顔を出し、そして、親分のさりげなさをだす勘次役の扇雀がいいのです。殿様もよいが、こういう町人が似合っています。何もいわずに縄を解くところで、よい芝居をみたと思いました。
夜の部に大いに満足して、京都に帰りました。週明けにみる昼の部が楽しみです。

夜の部
一、芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)
葛の葉

女房葛の葉/葛の葉姫   時蔵
安倍保名         萬太郎
信田庄司         松之助
庄司妻柵         吉弥

関西・歌舞伎を愛する会 結成四十周年記念
二、弥栄芝居賑(いやさかえしばいのにぎわい)
道頓堀芝居前の場

   仁左衛門
   時蔵
   扇雀
   孝太郎
   菊之助
   梅枝
   萬太郎
   壱太郎
   隼人
   橋之助
   中村福之助
   猿弥
   竹三郎
   進之介
   彌十郎
   芝翫
   鴈治郎
   秀太郎

川村花菱 作
大場正昭 演出
三、上州土産百両首(じょうしゅうみやげひゃくりょうくび)

正太郎      芝翫
牙次郎      菊之助
宇兵衛娘おそで  壱太郎
みぐるみの三次  橋之助
亭主宇兵衛    猿弥
勘次女房おせき  吉弥
金的の与一    彌十郎
隼の勘次     扇雀

パリ、バスチーユで、「運命の力」をみる

一週間の休暇をとってパリに来ている。六月のパリは初めて。そして、オペラシーズンでもある。6/25に、オペラ・バスチーユで「運命の力」をみてきた。

事前に学習したのが、新演出のもの。ヨナス・カウフマンが長い髪をして、インディオの血を引いていることを強調していた。

今回のオペラ・バスチーユ版は、宗教色が強く反映されている演出。人の運命は、抗うことができない、神を信じていても救われることのない人間の業のようなものを感じた。

Leonoraは、Alvaroにとって、ピュアで、天使のような人。心から彼女を愛しているのに、身分が違うと父親は断固として二人の仲を認めない。二人が駆け落ちしようと考えているとき、父親に見つかって、逃げるときに刀が跳ねて父親がなくなってしまう。父が亡くなり、故意ではないのだが、殺したのは恋人だった。

こんなときに頼るのは神である。神のもとに参って祈りを捧げるしかない。それとて、何の解決にもならないのだ。Leonoraは、彼があんなにハンサムで勇敢でなかったら、わたしが彼をいまも愛していることはなく、苦しみもなかったのにという。離れて住んでいても、けして忘れることのない愛、それが彼女を苦しめる。

神は救ってはくれないのだ。最後に死を与えられて、初めて平和が訪れる。生きているうちには、けして救われることのない二人、それが逃れられない運命なのだ。

Alvaroもまた、彼女の声をけして忘れない。いまも心から愛している。そして、修道士となった自分に決闘をしかけてくる彼女の兄と戦って、死に至らしめる。人間の持つ業のようなものの、恐ろしさを教えてくれる。

最初、吊るされたキリスト像は、最後には横たわり、静かに眠る。神にすがることで、生きようとして、でも忘れられない愛がある。愛があるから苦しむのだ。それを神への愛に昇華できないふたり。

祈りは、最後になって初めて、死を迎えることで救われる。それしか救いがないという深い哀しみ。オーケストラもすばらしく、そして、主人公の三人も歌がうまくて、心地よく、音楽の中に浸っていた。本当は哀しみでいっぱいのはずなのに、最後の死が救いとなってよかったと思った。

宗教と人間の対峙を見事に表現していたと思う。

 

あらすじ

La Forza del destino
Opera Giuseppe Verdi
Opéra Bastille – from 06 June to 09 July 2019

3h50 with 2 intervals
Surtitle : French / English
Opening nith : 6 June 2019

About

In few words:

When the curtain rises, Don Alvaro is about to flee with Leonora.
Alas, the two lovers are caught in the act by Leonora’s father.
Alvaro throws his pistols to the ground but one of them goes off
and kills the father. The force of destiny is pitiless and laughs
at the fates of men. A grand fresco abounding in dramatic twists,
La Forza del destino is also a work deeply rooted in its own time.

In 1861, Verdi agreed to stand for parliament to pursue his political
ideals. However, the Risorgimento was floundering and the composer
fell prey to doubt. His dark melancholy suffuses “La Forza”.

The opera becomes a place where dreams are shattered against the wall
of reality but where a fragile song of hope of enrapturing beauty is to be heard.

Opening
First part 80 mn
Intermission 30 mn
Second part 60 mn
Intermission 20 mn
Third part 40 mn
End

La Forza del destino

Opera in four acts

Music : Giuseppe Verdi
Libretto :  Francesco Maria Piave
Conductor : Nicola Luisotti
Director : Jean-Claude Auvray
Set design :  Alain Chambon
Costume design :  Maria Chiara Donato
Lighting design : Laurent Castaingt
Choreography :   Terry John Bates
Collaboration to the choreograhy : Paolo Ferri
Chorus master : José Luis Basso

Original production by Jean-Claude Auvray, revival directed by Stephen Taylor
Orchestre et Chœurs de l’Opéra national de Paris
Coproduction avec le Gran Teatre del Liceu, Barcelone

Il Marchese di Calatrava :   Carlo Cigni
Donna Leonora :    Elena Stikhina
Don Carlo di Vargas :  Željko Lučić
Don Alvaro : Brian Jagde
Preziosilla :    Varduhi Abrahamyan
Padre Guardiano :  Rafal Siwek
Fra Melitone :  Gabriele Viviani
Curra : Majdouline Zerari
Mastro Trabuco :  Rodolphe Briand

オルセーで印象派をみる

サンジェルマン・デプレから、オルセーまで歩いて12分くらい。訪れた日は、ルーブルが休館のため、混雑していた。
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印象派の絵を好きなだけ見ようと、オルセー、オランジェリー、ポンピドーセンターと毎日出かける。パリ在住の友人に案内してもらい、財団主催の展示も見た。日本の浮世絵の影響を受けていることがわかる。

季節を喪失した話

初めて欧州に出かけたのは、大学一年の秋だった。当時、祖母が海外旅行に凝っていて、ハワイ、アメリカ本土と訪れ、今度はヨーロッパに行きたいと思った。

当時は、まだ、国々で通貨も言葉も違う。65歳の祖母が一人旅で、そんな国々を巡る旅は、大変だろうと、孫であるわたしに声がかかった。【英語ができます、仏語もわかります】、と宣言して、語学の勉強を熱心にした。フランス語に慣れるために、フランス映画をたくさん見た。そして、出かけたのが、『JALパックゴールデンヨーロッパ三週間の旅』。事前にニューオータニで、ケーキ付きの説明会がある。ホテルのお風呂の使い方、なぞのビデの話。マナー、チップについての解説。まだ、海外旅行が高音の花と思われていた時代である。最初の寄港地がコペンハーゲン。

北極上空を通過する時、あなたは北極点を通過した何人目のお客様ですという、厚紙の証明書ももらった。わたしはそのグループの中の最年少。〇〇のお嬢ちゃんと呼ばれていた。日本を発ったのはたぶん10月上旬。まだ暑さが残っていて、半袖を着ていた。ヨーロッパはすっかり晩秋。三週間すぎて戻ってくると、半袖のひとはいなくて、すっかり秋が深まっていた。自分の知らないうちに、季節が飛んで行ってしまったのだ。

同じことは、年末年始に休暇をとって、ハワイにいったときも感じた。暮れの慌ただしさもなく、新年の恒例のお正月番組もなく、気がつくと、一年が終わって、新しい年が始まっていた。

4月末から5月にかけての令和騒ぎも同じだと思う。この時期、日本にいなかった人にはのあのカウントダウンのような、新年のような御世代わりはわからなったはずである。日頃、気づかずに暮らしているが、案外、身体は季節の変わり目を覚えている。

着物じまい

二年ほど前から、着物生活を始めている。きっかけは、冬に赤ちゃんの世話を始めたこと。風邪を引いてはいけないし、暖かくて、汚れても構わない服装は、と考えて、たくさんあるいただき物の、着物を活用しようと思ったのだ。

よく、着物3代という。祖母が着ていたきものを娘、その子まで3代に渡り活用できるという話だ。これは、普段着ではなくて、礼装用の着物、よそ行きの着物の話である。毎日着ていると、裾は擦切れるから、仕立て直しして、帯にしたり、羽織にしたりと活用する。最後には、座布団カバーや、小物入れなどに変えて、最後まで使い切る。

わたしも二年経ち、赤ん坊だった子たちは、歩き始めて、抱っこして食べさせることもなくなり、労働着としての着物は不要になった。冬の間は足元まで暖かく包み、お世話になった着物たちである。

そんな着物を、着物じまいしようと、箪笥から取り出す。箪笥には必要なものを入れて、使わないものをしまってはいけない。着物は、畳んでそのまま、洗濯機のデリケートモードにして、洗う。洗剤はオシャレ着洗い、シルクや毛もあらえるもの。洗い終わったら、竿にサザエさん干しして(両袖を通して)、乾かす。あとは、シルクの素材として、使おう。

お気に入りだった着物の袖が擦れて、切れたときは、がっかりもしたが、巻きスカートにして、寒い間、お世話になった。水をくぐったシルクは、アイロンをかけなくても、その皺も味わいがある。

いただき物の着物が増えて、訪問着を歌舞伎や、オペラや、能楽に着ているが、日々の暮らしは、柔らかものよりも、紬、結城や大島がよい。裾が擦り切れたものは、解いて、裾上げして、また使う。和裁はならったことはないが、検索などで調べて、なんとか対応している。

びわ湖オペラ、ジークフリート

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びわ湖ホールで、4年間に渡り開催される〈ニーべルングの指環〉、今年は三年目で、ジークフリート。気づいたときには、チケットは完売で、今年は見られないのかと危ぶんだ。幸運なことに、再発売の情報をいただき、移動中の電車の中から、クレジット決済するという、荒技で、極上の席を入手。オペラは、どの席でみるのかも重要な要素なのだ。

今回は、京都から朝早く出て、義仲寺に立ち寄り、その後、びわ湖に面したドイツレストラン ヴュルツブルクでランチ。隣のテーブルの方たちも、オペラに向かうようで、音楽の話題で盛り上がっていた。ここから、びわ湖ホールまでは徒歩で25分。びわ湖を眺めながら、歩く。

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さて、前置きはこのくらいして、オペラの話に戻る。わたしが見たのは3月2日。指揮 沼尻竜典、演出 ミヒャエル・ハンペ、管弦楽 京都市交響楽団。

一年ぶりに同じ場所に集い、席に着く。席は本当にいい場所、よくこれが手に入ったと不思議に思う。

さすらい人になったヴォータンが、ミーメから三つの質問をされ、丁寧に答える。いつも、 こんなわかりきったことをなぜ繰り返すのかと、不思議だった。今回は回答のようなものが見えた。一年ぶりの 観客に、あるいは、初めて見るものに、物語の筋を教えているのだ。

ジークフリート役ができるテノールは、世界に10人といないらしい。とくに今回は、四時間以上も歌い続け、最後にブリュンヒルデとの愛の歌を奏でる。これができるものは、マラソンでゴールして、サッカーの試合に出るようなもの。

16歳のりりしい少年に見えなくてもいいのだ。歌がすばらしければ、すべてが許される。

TOKYO リングでみた、モーテルの映らなくなった砂色の画面をみつめているさすらい人、スーパーマンのTシャツをきて、ブレンダーにいれたノートゥングを鋳るジークフリート。今回はもっとまともな演出だ。実は、2017年の6月1日に、新国立劇場でジークフリートは見ている。そのときは、入手できたのがC席で、4階から見下ろすようにして、眺めたのだった。

見る席は大切だ。良い席でみると、話の筋がよくわかる。なんども見ているはずなのに、今回はたくさん発見があった。別の言い方をすれば、丁寧に作っているのだ。

恐れをしらない若者、若者を利用して、黄金を奪い、世界を支配しようとするもの、そして、それを狙うもう一人の男。 黄金を守るため、大蛇になって、番人となるもの。主神でありながら、さすらい人となって、世界を歩く人、叡智を集めたという女、いまは地下深く眠りについて、起こされたことを不満におもっている女。炎に囲まれた岩山で眠る女、彼女を目覚めさせるのは、あのとき助けた女が産んだ男の子。

ここで物語は十六年を経過している。神々は年を取らない。眠らされたブリュンヒルデはともかく、残りのものどもは、十六年もの長きにわたり、怒りをあるいは恐れをもち続けたというわけか。 あるいは神々にとって、年を取らないということは年月は一瞬なのか、ヴォータンは長年さすらい人として旅をしていたかのように見える。

大蛇となったファフナーは賢者のようにもみえるし、ユーモアもある。水を飲みにきたのだが、食べ物もいっしょに得ることができるのだ、と。 これまでそんなことに気づきもしなかった。

森の中、大蛇退治、そして、炎の山を登り、花嫁を発見する。十六歳の男の子の夢と冒険物語。その裏で、もう動き始めた事実をとめることもできない、ヴォータンの哀しみ。ミーメは、報われることなく、殺される。 赤子から育てた若者である、ジークフリートには罪の意識がない。単純で、荒削りな性格、ブリュンヒルデの叡智とは調和するのだろうか。

ジークフリートは、ミーメに育てられたから、老人を嫌っている。さすらい人も年老いているので、嫌いなのだ。あの槍をノートゥングでまっ二つに折り、あたらしい時代が始まることを予見している。おそれおののく、乙女のブリュンヒルデに、いまあなたが欲しいと、歌い続けるジークフリートは、それを手に入れたら、次のことを始めるのだという予感がする。

バランスよく、愛情に包まれという、育ちかたでない若者が、次の行動にでるとどうなるのか。神々の終焉まで、みなくてはとおもう。

ジークフリートも、正当流ですばらしい歌声だっだが、ヴォータンがいい。この人は、堂々としていて、主神としての威張りくさったところ、そして、虚勢も張る、
哀しみ、世の中に対する恐れ、そんなものが感じられた。ただ、堂々として立派なだけではだめなのだ。

最後にカーテンコールに並んだ人々をみて、今回はこれだけの人で演じているのかと驚く。

アルベリッヒ、ミーメ兄弟、ヴォータン、ファフナー、ジークフリート、ブリュンヒルデ、小鳥役、エルダ
八名で、こんなに濃厚な舞台になるのか。

舞台は映像も駆使して、立体感とシャープさを出しているが、そこに集う人々がみな、胸に一物あり、恐れをしらないのは ジークフリートばかりだ。

帰りの電車の中で、一両のほとんどがびわ湖ホールからの帰り。オペラについての話が弾んで聞こえてくる。 これは地方だからのこと、上野の帰りに山手線のなかで、オペラの話をするものは皆無だ。

何度も見ているオペラでも、発見はたくさんある。今回のは、とくに丁寧にわかりやすく、つまり、奇をてらうことがなかったと思った。

鎧や兜を外された乙女のブリュンヒルデは可憐でよかった、と思っていたら、

いろいろと前置きはいうのでしょうが、最後には彼の胸に飛び込んでいくのでしょうと、帰りの信号待ちで、年配のご婦人たちが語るのがいい。

もちろん、びわ湖オペラを見るために来ているのだが、一日オペラに浸っていられたのは旅先の非日常だから。 パリでは、夜七時から始まる。オペラは夜の楽しみ。七時半に終わってはフランス人は寂しいだろうと思ったりする。

来年は13時開演だそうだ。二回とも見たい気がする。

沼尻指揮による、演奏は完璧、日本にいることを忘れてしまうほど。
びわ湖オペラは貴重な体験である。

□3月2日公演キャスト
ジークフリート   クリスティアン・フランツ
ミーメ     トルステン・ホフマン
さすらい人   青山 貴
アルベリヒ   町 英和
ファフナー   伊藤貴之
エルダ     竹本節子
ブリュンヒルデ 池田香織
森の小鳥    吉川日奈子

義仲寺

義仲寺は、木曽義仲の御墓所。そして、義仲を慕った芭蕉の御墓所でもあります。
江戸のくずし字で、芭蕉翁頭陀物語を習っていて、義仲寺の記述がしばしばあります。
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本日、びわ湖ホールで、オペラを見るために地図を見ていたら、石場からごく近くに近くに義仲寺という文字が飛び込んできました。最寄り駅は、一つ先の京阪膳所。そこから歩いて7分くらいのところです。

いただいた案内書によれば、貞享年間に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し、宿舎としたのはこのころからである。
元禄七年十月十二日、大坂の旅で芭蕉は逝去、遺言で、木曽塚に送るべしとあり、墓所を建てた。

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芭蕉が崇敬する義仲の隣にと、墓所を決めたのかとおもったら、ここを宿舎としていたのですね。元禄四年春に無名庵の新庵落成、六月二十五日から九月二十八日まで、無名庵に滞在とあります。膳所には芭蕉の門人たちも多く、びわ湖に面した景勝の地です。生前から、なじみのある場所に葬ってくれというのは納得できます。

芭蕉の知らなかった一面を教えられました。旅は発見の日々です。

 

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能楽五番立を見てきました

佐渡に通うようになって、今年で15年目、よくお聞きするのが、昔は朝から能楽五番をやっていたという古老の思い出。神社の参道には屋台の店も並び、ピーヒョロという笛の音も聞こえて、祭りだったといいます。一度はそれを見てみたいと、思っていました。

ごばん‐だて【五番立】
〘名〙 能の正式上演形式の一つ。一日の番組を脇能物(神能)、修羅物、鬘(かずら)物(女能)、雑物(物狂能など)、切能物(鬼能)の順に上演すること。また、その能番組。通常、脇能物の前に「翁」が、能と能との間に狂言が演じられる。近世の江戸式楽の頃から明治、大正頃まで行なわれたが、現在では行なわれることがすくなくなった。
《出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について》

この五番立の演能方式は,年一回能楽協会主催の「式能」という催しで行なわれます。それを知ったのも偶然でした。昨年の11月の国立能楽堂で、年配の女性二人が、パンフレットを手にして、この金額で一日能楽を楽しめるのね、と話していたのを気に留めて、そのパンフレットを持ち帰り、ゆっくりと読み直しました。

発売日の12/14にプレイガイドに電話して、申込み。振込用紙で振り込みます。第一部、第二部は、通し券で同じ席になり、脇正面の前から二列目が取れました。

能楽鑑賞でこんなにわくわくするのも、初めてのことです。
当日は、朝、9時半から、夜の7時半まで、10時間も、国立能楽堂に詰めています。さらに、映画鑑賞とは違い、 (かつて、ヴェルディの生涯という映画を九時間くらいみたことがあります)  前から二列目の席で、地謡や、ワキの方からもよく見えて、とても眠ることはできません。番組も各流派が競って演じるのですから、見ている側も真剣です。

第一部では、すでに二時間を超えたので、狂言の前に抜け出して、食堂で羽衣弁当をいただきました。長期戦になるので、しっかり食事するのも大切と思ったからです。休憩時間は短縮されて、お弁当もすぐに売り切れになってしまいました。

演ずる方が、最高のものを提供しようと表現するのに、見ている側も付いていかなくてなりません。番組については、予習もし、印刷物も持参していました。能楽のレパートリが広がれば、前回見たものと重ね合わせて、あるいは、想像を膨らませて、楽しむことができます。能楽の楽しみとしては、中級編だと思いました。

翁は、昨年の九月に、国立能楽堂 開場35周年記念公演で拝見していました。千歳、翁、三番三の舞によって天下泰平・国土安穏を願い、舞台は祝言の雰囲気に満ち溢れます。
翁     観世清和、三番叟 野村萬斎という豪華な舞台です。二度目なので、心の準備ができていましたが、舞台で面を付けたりとドキドキさせられます。

能  金春流 「生田」 は、あの敦盛の遺児が、亡霊となった父と対面するというもの。子方が気品があって、堂々としていました。これからが楽しみですね。敦盛は、修羅物らしく、武者姿、初めて見た能楽です。

今回の五番を通して、いちばん心打たれたのは、最後の能  金剛流 「綾鼓」。 シテは、種田道一さん、この方は、先日の文化庁文化交流使フォーラム2019」の開催-日本の心を世界に伝える-(第16回文化庁「文化交流使」活動報告会)でお話を聞いたばかりでした。さすがに、アメリカ、フランス、スペイン、イタリア、ハンガリーと、二ヶ月間、能楽という文化で交流を続けた経験が光っていました。

綾鼓は、なんどが見たことがありますが、このような哀しみ、そして、怒りを表現できた方はいなかったと思います。死を意識したような老人が、身分違いの女御に恋をして、そして、底意地の悪い仕打ちをされ、死んだ後、怨霊となって、女御を苦しめる。その激しさに、人間の哀しみが漂っていて、すばらしかったです。

本当に非日常の世界にトリップしている感覚で、能楽五番立てを見た後は、心地よい疲労感と、充足感に満たされていました。来年も体力の続く限りまた、みたいと思いました。

『翁』に始まり一日を通して上演される由緒正しい能楽公演


「第55回式能」より「翁」 観世清和
©公益社団法人能楽協会

式能は江戸式楽の伝統を受け継ぐ由緒正しい方式による能楽公演で、公益社団法人能楽協会に所属するシテ方・狂言方全流儀が揃い、当代一流の能楽師が一堂に会する年に一度の貴重な舞台です。番組形式は”翁付五番立て”として、能の間に狂言を一番ずつ計四番を組み入れた構成となっています。最初に上演される『翁』は、各流儀の代表となる演者が毎年順番で演じることになっており、今年度はシテ方観世流宗家・観世清和が勤めます。

第一部 演目詳細
能   観世流 「翁」  翁  観世清和
三番叟 野村萬斎
※11:10頃
「嵐山 白頭」  シテ   観世恭秀

※12:25頃
狂言  和泉流 「末広かり」   シテ 野村万作

-休憩30分-

※13:25頃
能   金春流 「生田」     シテ 髙橋忍

※14:15頃
狂言  大蔵流 「鬼の継子」   シテ 山本則俊

※終演 14:35頃

第二部 演目詳細
能   宝生流 「祇王」  シテ 大坪喜美雄

※16:00頃
狂言  和泉流 「謀生種」  シテ 野村萬

※16:20頃
能   喜多流 「枕慈童」  シテ 大村定

-休憩25分-

※17:45頃
狂言  大蔵流 「長光」   シテ 茂山千五郎

※18:05頃
能  金剛流 「綾鼓」   シテ 種田道一

※終演 19:25頃

 

大阪松竹座の壽新春大歌舞伎に行ってきました

2018年の暮れに京都南座で、顔見世をみて、関西で見る上方歌舞伎は素敵だろうと、大阪の新春歌舞伎に行くことにしました。見たのは昼の部です。IMG_2199

演目は、【土屋主税】、【寿栄藤末廣】、【河庄】。前に見たことがある作品だと思っていたら、2015年12月、京都南座昼の部夜の部で見ていました。改修前の南座最後の公演ということで、じっくりと楽しみブログも書きました。今回の公演は、そのときの配役と較べて、満足度が高かったり、微妙だったりと、不思議な感覚。歌舞伎は役者でみるということを実感しました。

【土屋主税】、2015年は雁治郎、今回は扇雀。そして、お園は、孝太郎から、壱太郎へ。大高源吾は、仁左衛門から、愛之助。其角は、左団次から    彌十郎と変わっています。雁治郎の殿様はおおらかで、愛嬌があって、一方、扇雀は、智があって、殿様の風格がある、もっと柔らかくてもいいのではと思いました。壱太郎が三年間で成長し、こんな武家娘ができるようになったのですね。孝太郎は、隙のない演技、壱太郎は若々しい色気もあって、おそば近くにいて、お手がつくのはこんな子なのだと、河内山を思い出したりしました。

大高源吾は、仁左衛門は声もよく、姿もよく、こんな男が二君に仕えることはないのに、其角は気づかない。愛之助は、端整な姿ですが、奥に隠された感情が少し見えてもいいのではと思います。頑張って欲しいですね。左団次は俳諧の師匠そのもの、彌十郎は、ときおり、長屋の大家さんにみえてしまうのが惜しい。これも始まったばかりなので、千秋楽には、もっとしまってくると思います。

【寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)】は、藤十郎、親子三代が勢ぞろいして、祝いの番組。立派な男児に恵まれた藤十郎と、精進を重ねて今に至る息子たちの立派さ、めでたいお正月公演にぴったりです。

【河庄】
こちらは、紙屋治兵衛    鴈治郎は変わらず。中身は、バージョンアップしています。三年も夢中になって通った女が心変わりしたと、脚蹴りにしたり、手を上げるのも、小春が身内の壱太郎だからできることなのでしょう。南座のときは、時蔵で、こちらも可憐な遊女が似合っていました。粉屋孫右衛門は、梅玉から、  彌十郎。梅玉は、ふたりを引き離す役で、彌十郎は、優しさにあふれています。小春に謝るしぐさが実にいい。雁治郎の振り回す手を押さえて、兄として諭すのが合っている。

大阪と京都で同じ演目をみることのできた幸せ。遠出をしてしみじみとよかったと思いました。

壽初春大歌舞伎

平成31年1月2日(水)-   26日(土)
昼の部
渡辺霞亭 作
一、玩辞楼十二曲の内 土屋主税(つちやちから)
土屋主税   扇雀
大高源吾   愛之助
お園      壱太郎
河瀬六弥  虎之介
落合其月  猿弥
晋其角    彌十郎

坂田藤十郎米寿記念
二、寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)
女帝  藤十郎
鶴    鴈治郎
亀    扇雀
従者  壱太郎
従者  虎之介

心中天網島
三、玩辞楼十二曲の内 河庄(かわしょう)
紙屋治兵衛    鴈治郎
紀の国屋小春  壱太郎
江戸屋太兵衛  愛之助
五貫屋善六    亀鶴
丁稚三五郎   虎之介
河内屋お庄   吉弥
粉屋孫右衛門  彌十郎