大阪文楽劇場で、心中天網島を見てきました

京都から大阪まで、二日連続で通っています。阪急烏丸から、梅田行きの特急に乗って、淡路で乗り換える。同じホームから堺筋線の天下茶屋行きが出て、日本橋で下車。七番出口が文楽劇場です。

今日の芝居は、心中天網島。9月に東京国立劇場小劇場でも開催されたのですが、どうしても大阪で見たかった演目です。出てくる地名も大阪のひとには馴染みがあって、また、人物設定もここでは無理なく感じます。サラリーマンの多い東京に較べて、小さくても一軒の店を構えているひとなら、お金の算段、家族の人間模様などひしひしと伝わってきて、納得することが多いのです。

本来は、男と女の色模様のはずが、大阪の商人が主人公になると、奉公人、親族、兄弟などが次々と登場して、恋物語が、金算用、あるいは、商売のため、親孝行のためと、がんじがらめに縛られていきます。

可愛い子どもが二人いて、夫婦仲もよく、なぜ、紙屋治兵衛は、曽根崎新地の遊女、紀の国屋の小春と、心中まで考えた深い中になるのか。長い間、疑問でした。それがこの芝居をみて、解けたような気がします。回りが放っては置かないのです。兄は、侍に姿を変えてまで、小春の心底を知りたいと思うし、妻おさんの父親はなにかあると、おさんを実家に連れ戻そうとする。いきなりやってきて、嫁入りの箪笥の引き出しを開けて、中身までチェックする。姑ではない、実の父親です。こんなことは、江戸の大店の主人は、けしてしないでしょう。ここでは、黙って見過ごしこともなく、気持ちを推量することもなく、ストレートに怒りや、驚きをぶつけてきます。

治兵衛は、こんな息が詰まるような日々から逃れたくて、小春との、親族のかかわりのない自由さを求めたのではないでしょうか。小春は所詮、遊女ですが、それでもひとときの真実の愛にふたりはすがっていたのだと思います。

一方で、小春も、おさんも本心を隠したまま、治兵衛の気持ちを大切に、心中して死なすことは避けて、縁を切ること、そしと、家にあるお金まで添えて、身請けを請うことを思いつきます。ふたりの健気な思いは、けして実らず、物語は悲劇へとまっしぐらに進んでいきます。

この講演も、三列目の右端、語り部の太夫さんのお顔がよく見えます。三味線の方が、弾きながら、声をかけていくのも聞こえます。台詞は、笑いをとるものもあり、客席からも笑い声が聞こえてきます。心中物に笑う場面があるというのも、初めて知りました。悲劇は日常の中にあって、何かが反転すると、始まるのです。

小春もおさんも何も主張はしない、うつむいて、耐える感じです。その下で、心中をやめさせるような手紙を送ったり、わざと縁切りしたりと、治兵衛より、ずっと複雑な感情をもち、芯は強いのです。 この二人の女を幸せにしてやることは、治兵衛にはできません。 死ぬことで、赦しをこう。いや、自分たちの他は何も考えていないのでしょう。 こんな男がもてるのです。それも事実かもしれません。

物語は、語り部の声に連れられて進み、そして、終わります。じっくりと堪能しました。終演後、隣の席の方と少しお話して、いい芝居だったというと、この席がよかったのよ、と言われました。お隣がよい方だったので、芝居に集中できたのでしょう。

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第1部 午前11時開演
近松門左衛門=作
心中天網島 (しんじゅうてんのあみじま)
北新地河庄の段
天満紙屋内の段
大和屋の段
道行名残の橋づくし

大阪文楽劇場に、仮名手本忠臣蔵 第三部を見に行く

四月、七月と第一部、第二部をみて、いよいよ最終章の第三部。今回は東京から新大阪経由で、日本橋の文楽劇場に向かう。

三宅坂の国立劇場小劇場でみる文楽と、大阪文楽劇場で見る文楽はどこかが違う。何が違うのか、三回も見ていると気がつくことがある。大阪弁の飛び交う電車に乗り継ぎ、大阪の人が集まっている劇場に着くと、そこはアウエー感満載。非日常、あるいは、上方へのタイムスリップをしたような気分になる。

劇場の座席配置が違う。語り部の太夫さんたちの汗が飛ぶといわれる3列の端の席に着いて、熱演振りを見ていると、人形の大きさも人形使いの顔が見えるのも気にならない。太夫さんたちの独演場。もちろん、人形芝居が物語の進行をわかりやすく表現するのだが、その息遣い、哀しみ、耐える風情。人形に命を吹き込んで演技をさせている。東京でみる文楽は、どこかよそよそしくて、ここまでの熱情が伝わらない。大阪は熱い、そして、濃い。若い人が大勢出ているのもうれしい。登場人物のひととなりが、わかりやすく、無駄なく、ストレートに伝わってくる。たしかにこういう人がいたのだろうと、素直にうなづける。

第三部の華は、やはり 『八段目 道行旅路の嫁入』母と娘が山科を目指しての二人旅。東海道を登っていく。ふたりの情愛の濃さに、心打たれるが、実はなさぬ仲の親子。可愛い娘に、閨のことまで語って聞かせる。太夫の語る台詞がうきうきと楽しい。

山科の大星宅に入り込んだ二人は許婚の母、お石と対面するが、ここは色で決めている。お石は黒、戸無瀬は赤、小浪は白、と並ぶのだ。色まで演技している。

『九段目  雪転しの段』で、虚無僧姿の加古川本蔵が登場するが、ここからは、腹のさぐりあい、本心を隠して、どうしても娘を許婚のもとに送りたい父の本心が見え隠れする。それは大星も同じ。どうせ生きては助からない人だからと、秘密の話を打ち明ける。師直に賄賂を贈り、媚びへつらうようにみえた本蔵は、実は、腹の据わった立派な武士だと、ここで明かされる。

『十段目 天河屋の段』大星が義平を試すのだが、その裏に哀しい夫婦わかれ、残された子どもの哀しみが胸を打つ。江戸時代にはこんな去り状一通で夫婦か別れさせられたのだろか。

『十一段目 花水橋引揚より』
『光明寺焼香の段』このふたつは完全に武士の世界観。若狭助が義士たちを労い、また、焼香場では、やはり大星がみなが納得するように仕切る。

通し狂言を全部見た感想としては、やはり、見所満載のお芝居だと思った。今では、歌舞伎のほうが自由度が高く、役者の格に合わせて、各段を繋いでいく。ひとつひとつが独立しているから、一場面、二場面でも十分に魅せられる。

文楽の場合は、太夫の力量に大きく左右される。それは、サッカーで一試合走り続けようなもの。汗はかかずとも、もともとの力のある人の段はすばらしい。近くでみているとよくわかる。

当時の幕府批判にならないように、鎌倉を舞台に、足利家を将軍にと替えているが、師直の紋が葵のご紋。これが徳川批判となるのは明々白々。第一部では新しい発見が多かったが、その分、太夫さんの語りに集中していなかったかもしれない。

新春に『加賀見山旧錦絵』をやるとのこと。松竹の新春歌舞伎とあわせて関西に来るか、悩ましい。

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第2部 午後4時開演
通し狂言 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
(八段目より十一段目まで)

八段目 道行旅路の嫁入
九段目  雪転しの段
山科閑居の段
十段目 天河屋の段
十一段目 花水橋引揚より
光明寺焼香の段

https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2019/11172.html

文楽劇場に、仮名手本忠臣蔵第二部を見に行く

今回の祇園祭で、初めてみる文楽です。四月に第一部、大序から四段目をみて、今回は、第二部、五段目から七段目。いわゆる山崎街道、勘平腹切、一力茶屋という名場面が続きます。

おかるの父、与市兵衛も、母も情の細やかな人たちです。それだけに、台詞のひとつひとつが、はっとして、心を打たれるものが多いのです。道理はわかっているが、それ以上に親子の情愛が深い。 祇園町からの迎えは男が一人。歌舞伎では、ここで、おかみさんが付いてくるのですが、それはありません。

殺された与市兵衛が、運び込まれ、勘平は自分が舅を殺したのだと思い込んでいます。腹切のあと、殺されたのは刀傷、鉄砲で打たれたのは定九郎で、かえって、敵をとっていたのです。おかるの母の繰り言。死んだものを生き帰せと叫んだり、勘平さん、どうぞ死なずにいてくださいと、思うままに叫んでいて、名前もついていないのです。

一力茶屋の場面は、豪快な廓遊びと、そして、入り乱れる人間模様。大星の本心を知っているのは、足軽の寺岡兵右衛門だけでした。密書を読んでしまった妹、おかるに、勘平はすでに生きていないから、命をくれと頼みます。

おかるは、便りがなくて恨んでいた。近くに来てくれてもいいのにと恨んでいた。まさか、死んでいたとは。父は高齢ゆえ仕方がないが、勘平さんはまだ三十前と、嘆きます。

そして、ふたりの兄妹の心底を見届けた由良助から、兄は東のともを許され、妹は由良助に手を添えて、敵の一人である、斧九太夫を刺し殺すのです。人形芝居とは思えないほどの由良助の、人間としての大きさを感じ、久しぶりによい芝居を見せてもらったと思いました。

文楽の特長は、なんといっても、太夫(語り手)と三味線弾きが大きく貢献します。今回もたっぷりと楽しませていただきました。11月の第三部もまた、見に行くつもりです。

パリ、バスチーユで、「運命の力」をみる

一週間の休暇をとってパリに来ている。六月のパリは初めて。そして、オペラシーズンでもある。6/25に、オペラ・バスチーユで「運命の力」をみてきた。

事前に学習したのが、新演出のもの。ヨナス・カウフマンが長い髪をして、インディオの血を引いていることを強調していた。

今回のオペラ・バスチーユ版は、宗教色が強く反映されている演出。人の運命は、抗うことができない、神を信じていても救われることのない人間の業のようなものを感じた。

Leonoraは、Alvaroにとって、ピュアで、天使のような人。心から彼女を愛しているのに、身分が違うと父親は断固として二人の仲を認めない。二人が駆け落ちしようと考えているとき、父親に見つかって、逃げるときに刀が跳ねて父親がなくなってしまう。父が亡くなり、故意ではないのだが、殺したのは恋人だった。

こんなときに頼るのは神である。神のもとに参って祈りを捧げるしかない。それとて、何の解決にもならないのだ。Leonoraは、彼があんなにハンサムで勇敢でなかったら、わたしが彼をいまも愛していることはなく、苦しみもなかったのにという。離れて住んでいても、けして忘れることのない愛、それが彼女を苦しめる。

神は救ってはくれないのだ。最後に死を与えられて、初めて平和が訪れる。生きているうちには、けして救われることのない二人、それが逃れられない運命なのだ。

Alvaroもまた、彼女の声をけして忘れない。いまも心から愛している。そして、修道士となった自分に決闘をしかけてくる彼女の兄と戦って、死に至らしめる。人間の持つ業のようなものの、恐ろしさを教えてくれる。

最初、吊るされたキリスト像は、最後には横たわり、静かに眠る。神にすがることで、生きようとして、でも忘れられない愛がある。愛があるから苦しむのだ。それを神への愛に昇華できないふたり。

祈りは、最後になって初めて、死を迎えることで救われる。それしか救いがないという深い哀しみ。オーケストラもすばらしく、そして、主人公の三人も歌がうまくて、心地よく、音楽の中に浸っていた。本当は哀しみでいっぱいのはずなのに、最後の死が救いとなってよかったと思った。

宗教と人間の対峙を見事に表現していたと思う。

 

あらすじ

La Forza del destino
Opera Giuseppe Verdi
Opéra Bastille – from 06 June to 09 July 2019

3h50 with 2 intervals
Surtitle : French / English
Opening nith : 6 June 2019

About

In few words:

When the curtain rises, Don Alvaro is about to flee with Leonora.
Alas, the two lovers are caught in the act by Leonora’s father.
Alvaro throws his pistols to the ground but one of them goes off
and kills the father. The force of destiny is pitiless and laughs
at the fates of men. A grand fresco abounding in dramatic twists,
La Forza del destino is also a work deeply rooted in its own time.

In 1861, Verdi agreed to stand for parliament to pursue his political
ideals. However, the Risorgimento was floundering and the composer
fell prey to doubt. His dark melancholy suffuses “La Forza”.

The opera becomes a place where dreams are shattered against the wall
of reality but where a fragile song of hope of enrapturing beauty is to be heard.

Opening
First part 80 mn
Intermission 30 mn
Second part 60 mn
Intermission 20 mn
Third part 40 mn
End

La Forza del destino

Opera in four acts

Music : Giuseppe Verdi
Libretto :  Francesco Maria Piave
Conductor : Nicola Luisotti
Director : Jean-Claude Auvray
Set design :  Alain Chambon
Costume design :  Maria Chiara Donato
Lighting design : Laurent Castaingt
Choreography :   Terry John Bates
Collaboration to the choreograhy : Paolo Ferri
Chorus master : José Luis Basso

Original production by Jean-Claude Auvray, revival directed by Stephen Taylor
Orchestre et Chœurs de l’Opéra national de Paris
Coproduction avec le Gran Teatre del Liceu, Barcelone

Il Marchese di Calatrava :   Carlo Cigni
Donna Leonora :    Elena Stikhina
Don Carlo di Vargas :  Željko Lučić
Don Alvaro : Brian Jagde
Preziosilla :    Varduhi Abrahamyan
Padre Guardiano :  Rafal Siwek
Fra Melitone :  Gabriele Viviani
Curra : Majdouline Zerari
Mastro Trabuco :  Rodolphe Briand

びわ湖オペラ、ジークフリート

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びわ湖ホールで、4年間に渡り開催される〈ニーべルングの指環〉、今年は三年目で、ジークフリート。気づいたときには、チケットは完売で、今年は見られないのかと危ぶんだ。幸運なことに、再発売の情報をいただき、移動中の電車の中から、クレジット決済するという、荒技で、極上の席を入手。オペラは、どの席でみるのかも重要な要素なのだ。

今回は、京都から朝早く出て、義仲寺に立ち寄り、その後、びわ湖に面したドイツレストラン ヴュルツブルクでランチ。隣のテーブルの方たちも、オペラに向かうようで、音楽の話題で盛り上がっていた。ここから、びわ湖ホールまでは徒歩で25分。びわ湖を眺めながら、歩く。

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さて、前置きはこのくらいして、オペラの話に戻る。わたしが見たのは3月2日。指揮 沼尻竜典、演出 ミヒャエル・ハンペ、管弦楽 京都市交響楽団。

一年ぶりに同じ場所に集い、席に着く。席は本当にいい場所、よくこれが手に入ったと不思議に思う。

さすらい人になったヴォータンが、ミーメから三つの質問をされ、丁寧に答える。いつも、 こんなわかりきったことをなぜ繰り返すのかと、不思議だった。今回は回答のようなものが見えた。一年ぶりの 観客に、あるいは、初めて見るものに、物語の筋を教えているのだ。

ジークフリート役ができるテノールは、世界に10人といないらしい。とくに今回は、四時間以上も歌い続け、最後にブリュンヒルデとの愛の歌を奏でる。これができるものは、マラソンでゴールして、サッカーの試合に出るようなもの。

16歳のりりしい少年に見えなくてもいいのだ。歌がすばらしければ、すべてが許される。

TOKYO リングでみた、モーテルの映らなくなった砂色の画面をみつめているさすらい人、スーパーマンのTシャツをきて、ブレンダーにいれたノートゥングを鋳るジークフリート。今回はもっとまともな演出だ。実は、2017年の6月1日に、新国立劇場でジークフリートは見ている。そのときは、入手できたのがC席で、4階から見下ろすようにして、眺めたのだった。

見る席は大切だ。良い席でみると、話の筋がよくわかる。なんども見ているはずなのに、今回はたくさん発見があった。別の言い方をすれば、丁寧に作っているのだ。

恐れをしらない若者、若者を利用して、黄金を奪い、世界を支配しようとするもの、そして、それを狙うもう一人の男。 黄金を守るため、大蛇になって、番人となるもの。主神でありながら、さすらい人となって、世界を歩く人、叡智を集めたという女、いまは地下深く眠りについて、起こされたことを不満におもっている女。炎に囲まれた岩山で眠る女、彼女を目覚めさせるのは、あのとき助けた女が産んだ男の子。

ここで物語は十六年を経過している。神々は年を取らない。眠らされたブリュンヒルデはともかく、残りのものどもは、十六年もの長きにわたり、怒りをあるいは恐れをもち続けたというわけか。 あるいは神々にとって、年を取らないということは年月は一瞬なのか、ヴォータンは長年さすらい人として旅をしていたかのように見える。

大蛇となったファフナーは賢者のようにもみえるし、ユーモアもある。水を飲みにきたのだが、食べ物もいっしょに得ることができるのだ、と。 これまでそんなことに気づきもしなかった。

森の中、大蛇退治、そして、炎の山を登り、花嫁を発見する。十六歳の男の子の夢と冒険物語。その裏で、もう動き始めた事実をとめることもできない、ヴォータンの哀しみ。ミーメは、報われることなく、殺される。 赤子から育てた若者である、ジークフリートには罪の意識がない。単純で、荒削りな性格、ブリュンヒルデの叡智とは調和するのだろうか。

ジークフリートは、ミーメに育てられたから、老人を嫌っている。さすらい人も年老いているので、嫌いなのだ。あの槍をノートゥングでまっ二つに折り、あたらしい時代が始まることを予見している。おそれおののく、乙女のブリュンヒルデに、いまあなたが欲しいと、歌い続けるジークフリートは、それを手に入れたら、次のことを始めるのだという予感がする。

バランスよく、愛情に包まれという、育ちかたでない若者が、次の行動にでるとどうなるのか。神々の終焉まで、みなくてはとおもう。

ジークフリートも、正当流ですばらしい歌声だっだが、ヴォータンがいい。この人は、堂々としていて、主神としての威張りくさったところ、そして、虚勢も張る、
哀しみ、世の中に対する恐れ、そんなものが感じられた。ただ、堂々として立派なだけではだめなのだ。

最後にカーテンコールに並んだ人々をみて、今回はこれだけの人で演じているのかと驚く。

アルベリッヒ、ミーメ兄弟、ヴォータン、ファフナー、ジークフリート、ブリュンヒルデ、小鳥役、エルダ
八名で、こんなに濃厚な舞台になるのか。

舞台は映像も駆使して、立体感とシャープさを出しているが、そこに集う人々がみな、胸に一物あり、恐れをしらないのは ジークフリートばかりだ。

帰りの電車の中で、一両のほとんどがびわ湖ホールからの帰り。オペラについての話が弾んで聞こえてくる。 これは地方だからのこと、上野の帰りに山手線のなかで、オペラの話をするものは皆無だ。

何度も見ているオペラでも、発見はたくさんある。今回のは、とくに丁寧にわかりやすく、つまり、奇をてらうことがなかったと思った。

鎧や兜を外された乙女のブリュンヒルデは可憐でよかった、と思っていたら、

いろいろと前置きはいうのでしょうが、最後には彼の胸に飛び込んでいくのでしょうと、帰りの信号待ちで、年配のご婦人たちが語るのがいい。

もちろん、びわ湖オペラを見るために来ているのだが、一日オペラに浸っていられたのは旅先の非日常だから。 パリでは、夜七時から始まる。オペラは夜の楽しみ。七時半に終わってはフランス人は寂しいだろうと思ったりする。

来年は13時開演だそうだ。二回とも見たい気がする。

沼尻指揮による、演奏は完璧、日本にいることを忘れてしまうほど。
びわ湖オペラは貴重な体験である。

□3月2日公演キャスト
ジークフリート   クリスティアン・フランツ
ミーメ     トルステン・ホフマン
さすらい人   青山 貴
アルベリヒ   町 英和
ファフナー   伊藤貴之
エルダ     竹本節子
ブリュンヒルデ 池田香織
森の小鳥    吉川日奈子

能楽五番立を見てきました

佐渡に通うようになって、今年で15年目、よくお聞きするのが、昔は朝から能楽五番をやっていたという古老の思い出。神社の参道には屋台の店も並び、ピーヒョロという笛の音も聞こえて、祭りだったといいます。一度はそれを見てみたいと、思っていました。

ごばん‐だて【五番立】
〘名〙 能の正式上演形式の一つ。一日の番組を脇能物(神能)、修羅物、鬘(かずら)物(女能)、雑物(物狂能など)、切能物(鬼能)の順に上演すること。また、その能番組。通常、脇能物の前に「翁」が、能と能との間に狂言が演じられる。近世の江戸式楽の頃から明治、大正頃まで行なわれたが、現在では行なわれることがすくなくなった。
《出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について》

この五番立の演能方式は,年一回能楽協会主催の「式能」という催しで行なわれます。それを知ったのも偶然でした。昨年の11月の国立能楽堂で、年配の女性二人が、パンフレットを手にして、この金額で一日能楽を楽しめるのね、と話していたのを気に留めて、そのパンフレットを持ち帰り、ゆっくりと読み直しました。

発売日の12/14にプレイガイドに電話して、申込み。振込用紙で振り込みます。第一部、第二部は、通し券で同じ席になり、脇正面の前から二列目が取れました。

能楽鑑賞でこんなにわくわくするのも、初めてのことです。
当日は、朝、9時半から、夜の7時半まで、10時間も、国立能楽堂に詰めています。さらに、映画鑑賞とは違い、 (かつて、ヴェルディの生涯という映画を九時間くらいみたことがあります)  前から二列目の席で、地謡や、ワキの方からもよく見えて、とても眠ることはできません。番組も各流派が競って演じるのですから、見ている側も真剣です。

第一部では、すでに二時間を超えたので、狂言の前に抜け出して、食堂で羽衣弁当をいただきました。長期戦になるので、しっかり食事するのも大切と思ったからです。休憩時間は短縮されて、お弁当もすぐに売り切れになってしまいました。

演ずる方が、最高のものを提供しようと表現するのに、見ている側も付いていかなくてなりません。番組については、予習もし、印刷物も持参していました。能楽のレパートリが広がれば、前回見たものと重ね合わせて、あるいは、想像を膨らませて、楽しむことができます。能楽の楽しみとしては、中級編だと思いました。

翁は、昨年の九月に、国立能楽堂 開場35周年記念公演で拝見していました。千歳、翁、三番三の舞によって天下泰平・国土安穏を願い、舞台は祝言の雰囲気に満ち溢れます。
翁     観世清和、三番叟 野村萬斎という豪華な舞台です。二度目なので、心の準備ができていましたが、舞台で面を付けたりとドキドキさせられます。

能  金春流 「生田」 は、あの敦盛の遺児が、亡霊となった父と対面するというもの。子方が気品があって、堂々としていました。これからが楽しみですね。敦盛は、修羅物らしく、武者姿、初めて見た能楽です。

今回の五番を通して、いちばん心打たれたのは、最後の能  金剛流 「綾鼓」。 シテは、種田道一さん、この方は、先日の文化庁文化交流使フォーラム2019」の開催-日本の心を世界に伝える-(第16回文化庁「文化交流使」活動報告会)でお話を聞いたばかりでした。さすがに、アメリカ、フランス、スペイン、イタリア、ハンガリーと、二ヶ月間、能楽という文化で交流を続けた経験が光っていました。

綾鼓は、なんどが見たことがありますが、このような哀しみ、そして、怒りを表現できた方はいなかったと思います。死を意識したような老人が、身分違いの女御に恋をして、そして、底意地の悪い仕打ちをされ、死んだ後、怨霊となって、女御を苦しめる。その激しさに、人間の哀しみが漂っていて、すばらしかったです。

本当に非日常の世界にトリップしている感覚で、能楽五番立てを見た後は、心地よい疲労感と、充足感に満たされていました。来年も体力の続く限りまた、みたいと思いました。

『翁』に始まり一日を通して上演される由緒正しい能楽公演


「第55回式能」より「翁」 観世清和
©公益社団法人能楽協会

式能は江戸式楽の伝統を受け継ぐ由緒正しい方式による能楽公演で、公益社団法人能楽協会に所属するシテ方・狂言方全流儀が揃い、当代一流の能楽師が一堂に会する年に一度の貴重な舞台です。番組形式は”翁付五番立て”として、能の間に狂言を一番ずつ計四番を組み入れた構成となっています。最初に上演される『翁』は、各流儀の代表となる演者が毎年順番で演じることになっており、今年度はシテ方観世流宗家・観世清和が勤めます。

第一部 演目詳細
能   観世流 「翁」  翁  観世清和
三番叟 野村萬斎
※11:10頃
「嵐山 白頭」  シテ   観世恭秀

※12:25頃
狂言  和泉流 「末広かり」   シテ 野村万作

-休憩30分-

※13:25頃
能   金春流 「生田」     シテ 髙橋忍

※14:15頃
狂言  大蔵流 「鬼の継子」   シテ 山本則俊

※終演 14:35頃

第二部 演目詳細
能   宝生流 「祇王」  シテ 大坪喜美雄

※16:00頃
狂言  和泉流 「謀生種」  シテ 野村萬

※16:20頃
能   喜多流 「枕慈童」  シテ 大村定

-休憩25分-

※17:45頃
狂言  大蔵流 「長光」   シテ 茂山千五郎

※18:05頃
能  金剛流 「綾鼓」   シテ 種田道一

※終演 19:25頃

 

みやびとひかり能乃会に行ってきました

12/23 祝日、京都観世会館で行われた、『みやびとひかり能乃会』。昨年に引き続き、今年も参加できました。知り合いの橋本本家の会。今年で34回目だとそうです。
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昨年、烏帽子折で、子方を卒業された充基さんが、今年は花月のシテ方。見ているこちらも身内のように気になって、台詞がうまく言えるか、舞は大丈夫かと見ておりましたが、無事勤め上げてよかったです。

京都ならではの会で、謡本片手に年配の方々もたの楽しんでおられました。花月のあとは、天鼓。こちらはご当主の雅夫さん、光史さん父子が前シテ、後シテをつとめあげられ、充実の舞台でした。

王伯役の雅夫さんは、子を失った哀しみと老いた身の上を上手に表現されていて,天鼓役の光史さんは、帝から許されて鼓を打つ喜びを全身で表していて、力強い演技です。能も静かなだけでなく、喜びの表現は飛んだり跳ねたりします。

今回のテーマは、別れ別れになった父と子の再会、あるいは供養。母が子どもを捜して、物狂いになるのは能楽では多く見られますが、花月のように父が僧侶になるのは珍しいこと。佐渡にいる順徳さんと隠岐にいる後鳥羽さんを思い出しました。このふたりの新作能を作りたいです。

終わると外は真っ暗。いつものようにキッシュと サヴァランを買って戻りました。自主講演なので、プログラムに解説まであって、心遣いを感じます。来年もぜひ、この続きを見ようと決めました。

京都南座の顔見世に行ってきました

毎年この時期に出かける、京都南座の顔見世興行。昨年は改装中で期間も短く、見逃しました。今年は二等席を奮発して、三階の最前列で鑑賞しました。

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まず着いた日に、JR京都駅の和久傳でお昼、ホテルで一休みして夜の部に、翌日は、早めに起きて、錦でおばんざいを調達。それをお弁当がわりにでかけました。

京都の顔見世は演目もたっぷり。休憩時間も演目ごとにあるだけで、凝縮されています。昼の部の寺子屋、芝翫は江戸風、武部源蔵役の愛之助以下は上方風と違います。亡くなった子どもの回向に焚くお香が舞台から流れてきました。松栄堂さんでしょうか。

鳥辺山心中で可憐な孝太郎と、無骨だが、心の優しい梅玉の道行きでしっぽりとしたところに、仁左衛門とじいさん、ばあさん。時蔵とふたりの甘える姿、幸せな二人がいっぺんして、年月にさらされて、37年ぶりに再会する。個人的な感想では、二人とも年を取りすぎている、もう少し若さが残っていてもいいのではないかと思いますが、残酷な時間の流れをあらわしているのでしょう。敵役の芝翫がねちねちといじめて、そうでないと、物語が成り立ちません。何度見てもはらはらどきどきします。

昼の部最後が新口村。藤十郎一家の上方芝居。舞台の上は雪景色。こちらの道行きは雪の中を死に向かってひたすら進む。その中に親子の情愛が見え隠れします。扇雀の梅川が可憐で、涙をそそります。これだけの演目は一日分。東京なら、休憩を挟んで一日の舞台になります。よいお席でみたので、役者さんの心の動きまでわかるような気がしました。

昼の部
第一、
菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)

寺子屋
松王丸    芝翫
武部源蔵   愛之助
戸浪     扇雀
涎くり与太郎 中村福之助
春藤玄蕃   亀鶴
千代     魁春
御台園生の前 秀太郎

第二、
鳥辺山心中(とりべやましんじゅう)岡本綺堂 作

菊地半九郎     梅玉
若松屋遊女お染   孝太郎
坂田源三郎     右團次
若党八介      寿治郎
お染父与兵衛    市蔵
若松屋遊女お花   魁春
坂田市之助     左團次

第三、
ぢいさんばあさん  森 鷗外 原作  宇野信夫 作・演出

美濃部伊織    仁左衛門
下嶋甚右衛門   芝翫
宮重久弥     愛之助
同輩の侍     市蔵
同        亀鶴
同        松之助
宮重久右衛門   高麗蔵
久弥妻きく    孝太郎
伊織妻るん    時蔵

第四、
恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)
新口村

亀屋忠兵衛    藤十郎
傾城梅川     扇雀
忠三郎女房    吉弥
父孫右衛門    鴈治郎

夜の部は、いきなり義経千本桜で始まります。仁左衛門のいがみの権太は、ワルですが、可愛らしさがあります。若葉の内侍一向に親切にすると見せかけて、わざと間違えた荷物で強請る、この人がやると、お金を取られても仕方がないと思えるから不思議。お里役の扇雀のくどき、自分で布団を敷いて寝ましょうと誘うのが可笑しい。町娘が結婚できる相手でないことを分からずにいるのが哀しい。弥左衛門訳の左團次が、子どもを殺して後悔する父親をたくみに演じます。父子の別れがひとつのテーマでした。

童子役の鴈治郎の可愛いこと、五月人形のようです。みていてほっとします。

愛之助の弁天小僧菊之助は、菊五郎の演ずる型とは少し違い、娘役なのに、顔は上げて堂々としています。男にばれたときもまた違う、上方で演ずることの珍しい題材のような気がします。南郷力丸役の右團次は、お嬢様をたてて安定した演技。

これでお終いかと思うと、三社祭が残っていました。鷹之資は、富十郎の忘れ形見、踊りのうまさは群を抜いています。これからが楽しみですね。

二日間にわたっての歌舞伎見物でしたが、本当にたっぷりで堪能しました。来年もよいお席で見ようと思います。ロビーにも椅子が多く、お弁当もゆったりと食べられました。夜の部は、タクシーが拾えてホテルにすぐに戻れました。京都に泊まっているからの贅沢ですね。

夜の部
第一、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)

木の実
小金吾討死
すし屋

いがみの権太      仁左衛門
弥助実は三位中将維盛  時蔵
お里          扇雀
若葉の内侍       孝太郎
主馬小金吾       千之助
猪熊大之進       松之助
弥左衛門女房お米    吉弥
権太女房小せん     秀太郎
鮓屋弥左衛門      左團次
梶原平三景時      梅玉

第二、面かぶり(めんかぶり)
童子   鴈治郎

第三、
弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)河竹黙阿弥 作

浜松屋見世先より
稲瀬川勢揃いまで

弁天小僧菊之助    愛之助
日本駄右衛門     芝翫
南郷力丸       右團次
鳶頭清次       亀鶴
浜松屋伜宗之助    中村福之助
浜松屋幸兵衛     市蔵
赤星十三郎      孝太郎
忠信利平       鴈治郎

第四、
三社祭(さんじゃまつり)

悪玉    鷹之資
善玉    千之助

以上

国立能楽堂 9月開場35周年記念公演

国立能楽堂開場35周年記念公演ということで、出かけてきました。チケットはわずか7分で完売。プラチナチケットになりました。

翁(おきな)は、能でも、狂言でもない別格に扱われる祝言曲。 最初に翁を演じる正式な番組立て翁付といい、正月初会や祝賀能などに演じられる。翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、役は白色尉、三番叟役は黒色尉という面をつける。

地謡は橋掛かりに座ります。面箱を持った千歳が登場し、中から表を出して着けて舞います。初めてみた演目で、古式豊かな風情を感じました。

能、井筒は何度かみていますが、今回は宗家のシテ。在原業平の妻である、紀有恒の娘が昔を思い出し舞い、そして、業平のかたみの冠をつけた、水に映る自分の姿をみて、夫のことを思い出すというお話。哀しさや時の移り変わりまで感じられて、夫婦の情愛にジーンとなりました。

《開場35周年記念公演》

翁(おきな)  金剛 永謹(金剛流)
松竹風流(まつたけのふりゅう) 大藏 彌太郎(大蔵流)

能  井筒(いづつ) 物著(ものぎ)  観世 清和(観世流)

能  乱(みだれ) 置壺(おきつぼ)   片山九郎右衛門(観世流)

京都祇園祭で、前祭を楽しむ

今年の夏は少し異常。東京も34度超えとか。京都は元から暑いので、どんよりした暑さが籠もっています。それでも宵山は熱気があって、暑ささえ楽しんでいる若い人たちでいっぱい。三連休の最後の日なので、どこもにぎわっていました。

そして、7/17は山鉾巡行の日。もう何年になるでしょうか。mixiコミュでお誘いがあって、京都マスターの教える京都の愉しみ方というのをじっくりと、味わいました。暑さは苦手、人ごみは嫌いという自分が、この時期にずっと通い続けているのは、きっと最初の出会いがすてきだったからと思います。IMG_5866

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暑さ対策として、四条の歩いて戻れる場所に泊まる。日中は出歩かない。疲れたら昼寝もする。ホテル選びは結構重要。二月か、三月から予約を始めます。そして、大阪の松竹座に歌舞伎を見に行く。阪急の駅に近いと、大阪はすぐです。

今年はその前の週に大雨が降ったのに、今回の祇園祭は晴天続き。これはあくまで私感なのですが、大船鉾に龍頭が納まって、心地よく四条を駆け巡る。それで、竜神様が満足して、雨を降らして困らせるのをやめたのではないか。物事が収まる場所に収まると平和が生まれます。

祇園祭は大人だけの世界ではなく、子どもたちも活躍しています。ちまきをうる女の子たち、そして、巡行に参加する男の子たち。みていて、うれしくなります。

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毎年見ていると、いろいろな変化が楽しめます。晴れているので、前懸・胴懸にはいちばん最高のものを使っています。雨の日だとビニールが掛かったのを覚えている方もいると思います。そういう意味で今年はいちばんよい、山鉾をみられたのではないでしょうか。山鉾の案内はこちら

占出山には歌仙の歌と作者の姿が縫い付けられています。さて、どの歌をご存知ですか。晴れているからこそ、こんな写真を撮る余裕があります。IMG_5991s

最後は船鉾。舳先に金色の鷁をつけています。鷁(げき)とは、中国で、想像上の水鳥。白い大形の鳥で、風によく耐えて大空を飛ぶといわれ、船首にその形を置いて飾りとしたとのことです。

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最後まで見終わって、四条通をみると、山鉾渋滞が起こっていました。

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本来なら、博物館に陳列しているような山鉾が通りを歩くのですから、それだけでも偉大です。これから鉾町まで約二時間あまり、本当に頭が下がります。そして、神事はこれだけではないのです。夕刻、八坂神社での神事のため、早めにお昼を食べて、ホテルで休息します。