2003年の「トーキョー・リング」の覚え書き

今年は二月に、パリのオペラ・バスチーユで、「ワルキューレ」を見た。そして、三月から四月にかけて参加した、フェニーチェ劇場友の会主催の日比谷オペラ塾では、「トーキョー・リング」の話題が出た。

トーキョー・リング」とは、

2001年から2004年にかけて新国立劇場で上演され、当時大きな話題を呼んだ楽劇「ニーベルングの指環」のこと。キース・ウォーナーが演出。

私たちが見たのは、2003年の「ジークフリート」。スーパーマンのTシャツを着たジークフリートは、ブレンダーで、名剣ノートゥングをかき混ぜ、電子レンジで整形する。

さすらい人に扮するヴォータンは、槍を持ち、片眼鏡をして、モーテルで、同期が乱れていて映らないTVを眺めている。

エルダはフィルムだらけの部屋に閉じ込められている。ブリュンヒルデ(緑川まりさん)は、傾いた巨大な金属のベッドにいる。と、こんな具合にもとの話とは、まるで違った解釈で物語は進められる。

まるでニューヨークにある近代美術館に紛れ込んで、その中でオペラを見ているという気分だった。

翌年の2004年に「神々のたそがれ」もみたはずなのだが、こちらははっきりとした記憶がない。こちらのブログに詳しく書かれているので、ぼんやりと思い出した。

つまり、2月の「ワルキューレ」は第二夜で、「ジークフリート」は第三夜だから、意識のなかで、この二つが繋がってしまったのだ。どちらも新演出。前にも書いたが、「ワルキューレ」は、愛の物語が際立っていた。

それに対して、「トーキョー・リング」は、すべてを置き換えるところに意義があった。古典的な演出をすべて、取払い、組み立て直していく。今でこそ、新演出というジャンルが日本でも知られてきたが、2001年当時は、理解されることが難しかったのではないか。

不思議なもので、モーツアルトの「フィガロの結婚」も新演出で上演されている。だれでも知っている筋と音楽だから、こうやって冒険ができるのだろう。初めてみたひとは、これがこの物語なのかと、思い込んでしまうのではないか。現代にして、天使を登場させたり、オフィスの中にしたり。

古典的なものをみると、悠長すぎるように思えるほどだ。

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