佐渡から戻ってきて、まず、調べたのは佐渡能舞台に関する文献、記事。インターネットで、ひとりの建築家が、佐渡の能舞台を調査している記事をみかけ、資料を送ってもらったりしました。
そして、調べれば調べるほど、島内33か所の能舞台の地図,写真などの資料がないことがわかりました。なければ、作ればいいと、単純にそう思ったのです。当時、外資系企業に勤めていたこともあり、休暇をとって、まず、能舞台の写真を撮るためのロケハンに出かけ、翌週、プロのカメラマンを連れて、三日間で島内の33か所の能舞台を撮影することができました。
今思ってもそれは、奇跡的に幸運にめぐまれてのことでした。最初に出かけた、佐渡博物館で渡られたのは一枚の地図。そこには、島内の地図に番号が振ってあるだけで,肝心の能舞台の神社名はあるが、番地はありません。同行した、観光タクシーの運転手さんも、場所をしらないというありさま。
無理をいってお借りした、若井三郎さんの佐渡の能舞台の解説を読みながら、場所の手掛かりを掴みました。当日は十月最初の土日。佐渡では、米の刈り取りの時期でした。
普段はひとのいない田んぼに、刈り取りのひとがいます。近くまでは来ているけれど、場所のわからないわたしたちが、神社の名前をいうと、親切に教えてくれます。観光タクシーと、お客というシチュエーションに、きっと困っているのだろうと、近くまで、車で先導してくださった方もいました。
おかげで、土日の二日間で、なんとか場所がわかり、ロケハンは完了しました。撮影当日も三日間とも快晴。天にも支えられて、無事、撮影が終わりました。一方、カメラマンが撮影している間、わたしと運転手さんは、近所の大きな農家に聞き取り調査。いつ頃まで、能楽をやっていたのかをお聞きします。持参した2万5千分の一の地図にも、正確な場所を書き込んでいきます。
これらの資料をまとめて、佐渡博物館に提出しました。このときは、まだ、それ以上のことは、考えてもいなかったのですが、調べていくうちに、佐渡の能舞台に魅了されていくのです。最初にみた、草苅神社の能舞台、楽屋に演能の記録があるのですが、それがあるときから途切れていて、宮司にお尋ねしてみました。
すると、スポンサーがないので、できないというのです。それなら、どのくらい金額がかかるのか、わたしでも支援できるのか、など詳しくお聞きしました。
すると、宮司がいわれたのです。一年か、二年してやめたりできない。これは、神様との約束なのだから、五年、十年と続ける覚悟がないかぎりできない、と。そして、わたしは、高校の同期会にも声をかけ、協賛金という形で寄附をもらうことにしたのです。
そして、十年。なんとか、続けることができました。みなさまのご協力、ご支援がなければできなかったことです。舞台は、羽茂の昭風会のメンバにご協力いただいております。参加される方も十年で、新旧交代があったりして、伝統芸能の継承がうまくいっていると思っています。