歌舞伎は題名にだまされてはいけない、松竹座に行ってきました。

歌舞伎の題名で、演目を知る。昼の部か、夜の部かと迷い、人はどきどきしながら、出かけていく。しかし、役者という種族は、特別。演目とは別に自分の解釈、自分の演技というものに命を懸けている。

7/16の夜、宵山で賑わう京都を抜け出し、大阪松竹座にでかけた。これも恒例のこと。最近は堪え性がなくなって、関西の歌舞伎を昼夜通しで見るということができなくなっている。江戸の歌舞伎に較べて濃密、一幕多いのだ。

京都の暑さを逃れるという意味なら、昼の部なのだが、今回は、どうしても夜の「沼津」が見たかった。東京ではなかなかかかることのない演目である。たぶん見るのも初めて。

「沼津」
藤十郎、翫雀、扇雀と山城屋+成駒屋の一族総出の芝居。

鴈治郎がやった呉服屋十兵衛を藤十郎、雲助平作を翫雀。親子が逆なのも、藤十郎の若々しさで無理なく演ずる。平作が、78才になったら、足腰のたたんようになる苦労がわかるといい、笑わせる。ふたりが荷物を担いで、客席を歩くのも一興。

可憐な娘お米は、扇雀。十兵衛から嫁にほしいといわれて、帰ってもらってくださいと父に訴える。清楚な色気があり、夜暗くなったところで、恋人のために傷にきく印籠をぬすもうとする辺りに、女の哀しさが漂う。その後の訳を訴え、許しを乞うところも女形の美がある。

三人の心根に、相手を思いやる気持ちがにじみ出ていて、それぞれの見どころが満載。役者の格が合わなければ、まとまらない。この一家でなければできない演目だと思った。

 

「身替座禅」
仁左衛門の身代座禅。あの玉の井という奥方に頭が上がらない大名の右京が、たまたま京に訪ねてきている愛人花子に会うために、一夜座禅を組むといって妻を欺く。

すでに何度か見ているし、あれだなと思って鑑賞する。仁左衛門の右京は、恐妻家。奥方玉の井は何でも反対して、そばに寄り添っていたいと思っている。そこで、座禅を組むから近づかないようにといい、家来の太郎冠者(橋之助)を呼び出し、無理やり身代わりにして、いそいそと出かけて行く。その楽しさ、会いたさが伝わってくる。

当然のことながら,奥方は窮屈そうな座禅を気の毒がり差し入れをしようとするが、断られ、側近くに出向いて、被り物を剥がして、右京でないことを知ってしまう。さあこれからが怖い。太郎冠者に言いつけ,自分が替わりに座禅をする。翫雀の玉の井は、能面の作りで、悋気と、愛憎が見え隠れする。

そこへいそいそと右京が戻ってくる。花道でたちどまり、ほうっと息をつく。愛の営みのあとの少し疲れた惚けたような姿で、それは大名というよりは、あの「郭文章」の伊左衛門。顔の作りからして、違う。いいとこの若旦那の、放蕩三昧の色香が漂ってくる。ここからがたっぷりなのだ。題名は「身替座禅」なのに、夕霧と契った後の伊左衛門に変わっている。衣装こそ、紙子は着ていないが、中身はまさしく伊左衛門

ここからは仁左さんの独断場。この人でなければ、できない演技だ。奥方玉の井にこのことは隠しているのも辛いから、知られないようにお前だけに話すといって、太郎冠者と信じて、一夜の楽しさを打ち明ける辺り。そして、それが奥方だと知った驚き、逃げ惑う姿。ここからは、元の「身替座禅」に戻っているのだが、色町の香りは全編に残っている。東京で見たときは、そんなことは露も考えなかった。

松竹座で、仁左さんの伊左衛門を見たと信じている。題名にだまされてはいけないのだ。

 

七月大歌舞伎 夜の部

一、伊賀越道中双六 沼津(ぬまづ)

呉服屋十兵衛    藤十郎
お米    扇 雀
池添孫八    進之介
雲助平作    翫 雀

二、新古演劇十種の内 身替座禅

山蔭右京    仁左衛門
太郎冠者    橋之助
侍女千枝    梅 枝
同 小枝    児太郎
奥方玉の井    翫 雀

三、真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)
豊志賀の死

豊志賀    時 蔵
お久    梅 枝
噺家さん蝶    萬太郎
伊東春海    橘三郎
勘蔵    竹三郎
新吉    菊之助

四、女伊達(おんなだて)

女伊達木崎のお秀    孝太郎
男伊達淀川の千蔵    萬太郎
同  中之島鳴平    国 生

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