江戸の人々の暮らしから、考える

日本橋人形町で、江戸の古文書セミナを主宰しているが、ご縁があって、二年前から千葉市の市史協力員として、江戸の古文書整理を手伝っている。

毎週火曜日に集まり、午前中に文書の整理、そして午後は研究会で関連文書を読み解くボランティア活動だ。 メンバは10名、みなベテランの方ばかりで教わることが多い。

そんな中での自分の存在価値は、何かと考えてみる。メンバの方々は古文書を読むことは専門家なのだが、その中に登場する人間模様については、あまり考えていない。でも、そこが面白いと、私は考える。

今日、研究会で題材にした「口上 当申年 残穀代 内金 金二十両 入封差上申候 (こうじょう とうさるどし ざんこくだい うちきん きんにじゅうりょう いりふうさいあげもうしそうろう)」は、旗本 建部氏の知行地からの上納金の受け渡しに関するものである。

手紙が書かれたのは申年の十一月二十一日、旧暦なので今の十二月下旬に当る。手紙の書き出しも「寒冷の節に相成り候」となっている。使いのものが、岩撫村、そして外部田村からの上納金の内金を、小山村まで届けるのだ。

差出人の外部田村当番名主の三右衛門は、本文とは別の断片に、「飛脚之もの今晩壱宿御頼申上候」この書状を持って出た飛脚のものを一晩泊めてほしいと書き留めている。受取人は小山村名主の与惣右衛門である。

外部田村から小山村までは十数キロ、歩いては三時間余りかかる。 時期は冬、雪でも降り出したのではないか。これは私の勝手な推量である。江戸の村には電灯もなく、畑の向こうには闇の世界が広がっている。厳冬の夜、歩いて帰るのは生命の危険もあるだろう。

そして、この飛脚代も書面に記載されている。「三百文 拙村之納路用(せっそんのおさめろよう)」この三百文というのは、江戸市中の裏店の長屋で一月の家賃に相当する。今の三、四万に値するのではないか。高額の使いである。

この話は江戸の幕末に近い時代だ。そこからまだ百年余りしか過ぎていないのに、私たちは江戸の暮らしを想像することができない。

この文書は美濃紙に書かれていて、筆遣いも鮮やかである。何気なく筆でモノを書いたりできたのだ。 それは奈良時代から続いた習慣。明治になっても筆と墨は使われていた。土地の台帳や、戸籍証書などは明治には墨で書かれていた。

これがかろうじて残っているのが、結婚祝や香典の宛名書きである。IT系外資企業に長年勤めて、伝統文化、伝統芸能というのに強く引かれている。日本人であることの証しを求めているかもしれない。

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