能楽鑑賞教室というのは、高校生のための能楽の手引きで、夏休みの前の五日間、毎日午前、午後と二公演、行なわれます。今回、初めて参加しました。
初心者向けというのは、実は、丁寧で親切。少し、能楽がわかった人が見ると、視界の靄のようなものが開ける気がします。
もともと、能楽というのは、農耕民族だった日本人が、豊作祈願のために神に舞うひとつの形式でした。それらが室町時代、世阿弥によって、幽玄という境地を生み出したのだのです。あの世とこの世を行き来しつつ、亡びた人に語りをさせるというのは、芸術性を高め、独自な世界を造り上げました。
世阿弥がなぜ、このような世界に達したのか、それは、能というのが本来、たったひとりのスポンサー、足利義満や、信長、秀吉、家康などを満足させるための演劇で、あったからです。あの金閣寺を造り上げた、義満の美意識と、室町という時代に色濃く反映していたのではないでしょうか。
会場では、高校生にもわかるように解説していましたが、たったひとりのスーパーセレブのための演劇で、広く一般にということはなかったそうです。将軍家、大名家が滅びた後も、ごく限られた富裕層、旦那衆が楽しみました。三井家の能楽もそうです。
他の演劇と較べて、特異性があります。全員が同じことを感じなくてよいのです。その人の経験、体験、そして、文学に対する造詣の深さなどによって、同じ演技から、別の感想がでても、それが能楽なのだそうです。これは,目から鱗の話でした。
ある意味、孤独な芸能です。ですから、そのスポンサーを失うと、滅びてしまう。世阿弥の晩年や、江戸幕末で、大名がなくなるという危機、これまで、そういうものも乗り越えてきて、世界遺産となり、現在に続いているのです。そう思うと、できるかぎり、能楽堂に足を運び、鑑賞しなくてはと思います。
この鑑賞教室のテキストがすばらしい。狂言、能ともにあらすじが、マンガで表現されていて、高校生にも理解してもらえます。始まる前には番組の解説と、実際に会場からの参加者が面を付けて、立ち歩きしてもらいます。
わからないながらも、ちょっと高級で楽しそうと、思えば、クラブ活動として、やってみてもいいし、仕舞や謡を習うこともできます。そういう、わくわく感が大切なのだと思います。
千駄ヶ谷の国立能楽堂も、高校生の一団に占拠された感じでしたが、マナーはよく、おしゃべり、居眠りなどなく、静かに鑑賞していました。ただ、拍手のきまりごとは教わっていなかったのか、全員が退場して、初めて拍手が始まりました。それはそれで新鮮でした。
今回のテーマは鬼。鬼は本当に怖いものなのか、それとも優しさと、内面の闇をかかえた人なのか。解釈はさまざまですから、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
能楽堂の資料展示室には、 入門展 「能楽入門」ということで、20の能面が展示されていました。休憩時間にのぞいて見ると楽しいです。
また、台詞が聞き取りにくいという初心者のための字幕サービスもあって、近代化されています。
ぜひ一度、能楽堂にお越しください。すてきな時間を過ごせますように。
日本語、英語で表示される字幕サービス。