赤穂浪士、小野寺秀和とその妻、を読んでみました

元禄15年12月14日は、赤穂浪士が、本所にある吉良上野介宅に討ち入り、敵討ちを果たした日。毎年12月14日には、泉岳寺でも赤穂義士祭が開催される。

その義士のひとりである小野寺秀和と、その妻の物語を紹介したいと思う。
小野寺十内秀和と、その妻はことに睦まじかったことで有名である。それは秀和が妻に送った数通の文からもわかる。

討ち入り二日前、極月十二日(12月12日)に妻に送った手紙でも、その人柄は偲ばれる。

「万一如何様の難儀がかかったとしても、見苦しく取り乱したりしないように。あなたを信頼しているから、心安く思っている」そして、このような状況でも、夫婦して歌のやり取りをしているのである。

「こ ちらが作った逢坂の歌、哀れと思うのはさすがによく分かっているではないか。そこもとの歌、さてさて感じ入り候。涙せきあえず、人の見る目をおもひ、まこ とに涙をのむ心持ちにて、いくどか吟じ候。これにつきても、必ず、必ず、歌を捨てないでほしい(ひとりになっても、才能があるのだから、続けてほしい)」 京都時代、二人ともに、歌人の金勝慶安に歌を習っていた。

討ち入り前の多忙な時、こんなふうに妻を思いやった手紙を書いている武士がいる。秀和は、和歌、古典にも明るい人だった。逆のいい方をすれば、綱吉の時代は、もう戦いなど忘れ去れていた。だから、秀和のような文人たちが、闘ったのがあの討ち入りである。

討ち入りのとき、秀和は59歳。死を覚悟していたはずだ。その後、2月3日に妻に送った手紙には
「そもじも安穏にもあるまじきか。かねて覚悟のこと、取り乱し給ふまじきと心安く覚え候」と書かれている。どんな状況にあっても、妻に優しい心遣いのできる男だった。

この妻は夫が切腹した後、数日間、食事をとらず絶食して自害した。二人で過ごした年月を思い計ったのであろうか。
(近世畸人伝より)

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